ご挨拶
皆さま、こんにちは。宮野健一(みやの けんいち)と申します。
私は昭和39年5月薩摩川内市下甑町(旧薩摩郡下甑村瀬々野浦)で生まれ、中学校卒業まで甑島で育ちました。中学卒業後は川内高校に入学し3年間寮生活を送り、卒業後は東京に出て朝日新聞奨学生として朝夕の新聞配達・集金・セールスをして学費と生活費を稼ぎながら亜細亜大学で法律(国際法)を学びました。
大学卒業後は帝国海軍の歴史が色濃く残る広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に入校し、自衛官としての人生をスタートしました。自衛官時代は主に護衛艦搭載ヘリコプターのパイロットとして国家防衛の最前線で任務を遂行する傍ら研究開発部隊で新機種、戦術等の開発や学校教官として将来を担う幹部の教育に携わるなど日本全国の部隊、司令部等で様々な配置・任務を経験しました。この間、軍事問題を始めとする様々な分野の問題解決を担任するとともに災害派遣、事件、事故などに遭遇し様々な経験と教訓を得ました。また、全国各地に赴任し多くの方と交流しました。
自衛官定年後は、羽田空港の民間会社で施設警備・空港保安警備業務や警備員の教育に携わるとともに首都直下地震等が発生した際のターミナル全般の災害対策、消防計画等の策定などお客様の安全を守る危機管理業務を担当しました。
この度、32年に及ぶ国家防衛の任務と5年間の会社勤務を終え故郷薩摩川内市に戻ってまいりました。今後は私を育んでくれた故郷に感謝と恩返しをすべく自衛隊及び民間会社の勤務を通じて習得してきた様々な知識、経験、教訓等を故郷の皆様の安心安全の確保と発展のために活かしていきたいと考えております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
令和6年5月吉日
略 歴
1964年(昭和39年)5月 |
薩摩川内市下甑町 生まれ |
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1971年(昭和46年)4月 |
下甑村立西山小学校入学 |
1980年(昭和55年)3月 |
下甑村立海星中学校卒業 |
1983年(昭和58年)3月 |
鹿児島県立川内高校卒業 |
1988年(昭和63年)3月 |
亜細亜大学法学部卒業 |
1988年(昭和63年)3月 |
海上自衛隊幹部候補生学校入校(江田島) |
1989年(平成元年) 3月 |
海上自衛隊幹部任官(3等海尉) 【主要配置】 |
2019年(令和元年) 5月 |
海上自衛隊定年退官(1等海佐) |
2019年(令和元年) 5月 |
羽田エアポートセキュリティー株式会社 入社 |
2024年(令和6年) 4月 |
羽田エアポートセキュリティー株式会社 退社 |
資格・免許
- 事業用操縦士(ヘリコプター)
- 中型自動車・中型2輪免許
- 警備員指導教育責任者資格者証
- 施設警備業務1級、空港保安警備業務1級
- 上級救命技能認定証、自衛消防技術認定証ほか。
プロフィール
幼・少年期(昭和39年5月~高校卒業)
私は、昭和39年5月1日、鹿児島県薩摩川内市下甑町(旧薩摩郡下甑村瀬々野浦)で生まれました。村立西山小学校、西山中学校(2年生からは下甑村の青瀬、長浜、内川内中学校4校が統合され海星中学校となる。)を卒業、甑島には高校がないため15歳で親元を離れ、鹿児島県立川内高校(旧川内市御陵下町)に入学し寮生活を始めました。
写真左:入学当時の西山小学校(小学校の石垣は村人が子弟の教育のため9年の歳月をかけて完成させた。)
写真右:西山小学校校庭からナポレオン岩(127m)を望む。
高校では1年次は空手部、2年・3年は野球部に所属しました。高校では野球をすることが夢でしたが、島には野球部がないことから自信がなく入部を諦めました。しかしながら諦めきれず2年生から野球部に入部し2年秋からはレギュラーにつくことができました。
大学生時代(昭和58年3月~昭和63年3月)
高校卒業後は故郷を離れ上京しました。すでに両親とも高齢で仕送りなどとても望むべくもなく、また、自らも高校卒業後は自立するつもりでいましたので、学費と生活費を稼がねばなりませんでした。予備校、大学時代は朝日新聞社の新聞奨学生として新聞販売店に住み込み朝夕の新聞配達、集金、セールスなどでほぼ休みもなく働きました。担当区域の読者が300軒以上あり毎月の集金は配達以上に大変な仕事でした。お客様からお金をいただくことがどんなに大変なことかを身をもって学ぶことができました。大学は亜細亜大学法学部に進みゼミで国際法を専攻しました。北方領土、竹島などの領土紛争や尖閣諸島問題、東京裁判の問題点などを国際法の観点から学びました。卒論では国連海洋法条約について研究しました。当時としては珍しく地政学の正規の講義もあり国際情勢について新たな視点をもつことができました。この間、仕事と学業の両立は厳しいこともありましたが、結果的には充実した学生生活を送ることができました。
自衛官時代(昭和63年3月~令和元年5月)
大学4年時の就職活動に際し、海上自衛隊幹部候補生の試験を受け合格することができました。昭和63年3月29日、広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に入校しました。私の自衛隊生活はこの日、ここからスタートしました。江田島は、アメリカのアナポリス、英国のダートマスとともに世界3大兵学校の一つに数えられた海軍兵学校があった大変歴史と伝統のある風光明媚な土地であり、海上自衛官にとっては聖地ともいうべき場所です。
当時の同期は約140名ほどでした。防衛大学を卒業した70名の海上要員と全国の大学から選抜試験を合格した70名の一般大学卒業生が1年間寝食を共にして一緒に学び海上自衛隊の初級幹部として必要な資質・素養を修得します。親戚知人に自衛隊関係者はおらず、全ての経験がはじめてのことばかりでした。分刻みの生活で覚えることが多くプレッシャーのかかる一年でした。かなり多くの仲間が卒業式を待たずに江田島を去っていきました。
江田島での1年間の教育の後、護衛艦に乗艦し3ヶ月間の国内巡行、そして5ヵ月間の遠洋航海(パナマ運河経由南米方面、8か国11寄港地)を経て平成元年12月、山口県小月の第221教育航空隊に着隊し海上自衛隊パイロットとしての第一歩をスタートしました。
【第201・第202・第211教育航空隊で訓練を受けた練習機】
※パイロット資格取得まで約2年半を要します。
30数年の自衛官時代は回転翼哨戒機部隊(第124・第121・第25航空隊)のパイロットとしてヘリコプター搭載護衛艦とともに行動し、国家防衛の最前線で任務を遂行してきました。研究開発部隊(第51航空隊(2回)、航空プログラム開発隊(2回)、指揮通信開発隊)に勤務し新機種開発や戦術研究などにも従事してきました。また、航空集団司令官の研究開発部門に係る参謀配置である航空集団司令部研究開発主任幕僚として、海上自衛隊航空部隊の全ての研究開発を統括し貴重な経験と幅広い交流を得ました。その後、航空プログラム開発隊副長、第25航空隊副長を経て、大湊システム通信隊司令を最後に令和元年5月1日、1等海佐で退官しました。
この間、軍事問題を始めとする様々な課題解決を担任するとともに災害派遣、事件、事故などに遭遇し様々な経験と教訓を得ました。また、全国各地に赴任し多くの方と交流することができました。赴任先の地元の方とのお付合いは、自衛隊退官後も続いており私にとって貴重な財産となっています。
32年あまりの自衛隊生活を概括いたしましたが、この間、幹部自衛官として最も必要とされる資質・能力は、海上自衛隊で「作戦要務」と呼ばれている軍事問題を始めとする各種問題の論理的かつ体系的な解決手法(思考法)でした。幹部自衛官はこの思考法を現役期間を通じて学び、そして実任務、訓練、研究開発、一般業務等で実践します。東日本大震災の時、10万の大部隊が済々と任務を遂行し、国民の皆様から日本で最も信頼される組織として評価されるに至ったのは、まさにこの思考法に基づく部隊(組織)運用が陸海空全ての部隊に浸透し実践されたことが一つの大きな要因であったと考えています。
自衛官として30年以上学び実践してきた作戦要務の考え方は、全ての分野で必要とされるものです。地域社会の問題解決も含め複雑な問題を解決しなければならない政治の世界においても本来最も必要とされる資質・能力であると考えています。
写真上:最初の赴任地館山で長女と。そして退官式で家族(次男はポーランド留学中で参加できず。)と。
写真上:残雪の残るなか自衛隊最後のフライトを終えて隊員の出迎えを受ける。(第25航空隊SH-60J(むつ市大湊))
会社員時代(令和元年5月~令和6年4月)
自衛官定年後は、羽田空港のターミナルを管理運営する日本空港ビルデング株式会社(JAT)のグループ会社である羽田エアポートセキュリティー株式会社(HAS)に入社しました。同社では施設警備・空港保安警備業務や警備員教育に携わるとともに首都直下地震等が発生した際のターミナル全般の災害対策、消防計画等の策定などお客様の安全を守る危機管理関連の業務を担当しました。JATグループは、年間6000万人以上が訪れる羽田空港でお客様の「絶対安全」を経営理念としてターミナル運営を担っており、HASも同理念のもと教育訓練とお客様へのサービスを重視する会社でした。5年間の民間会社での勤務でしたが、JAT、HASともに素晴らしい社員の皆様に恵まれ、充実した会社員時代を過ごすことができました。