活動報告

甑島(こしきじま)からの便り(第1便)

2024年(令和6年)7月1日(月)

皆様こんにちは。光陰矢の如しといわれますが、今日から7月(文月)となり1年の後半がスタートします。
今年は1月1日の能登半島地震、2日の羽田空港での航空機事故(私も対応にあたりました。)と大きな災害、事故が立て続けに発生しましたが、あれからもう半年が経過しました。本日の朝のNHKニュースで復興が進まない地震後の住民の様子が報告されていました。そのなかで老人が「地震は心も壊すのです。建物はいつか復旧しますが、壊れた心は元どおりになりません。」と発言されていたのが、とても印象に残りました。改めて「心を壊さない」ためにも災害対策は発生後の災害をイメージした詳細な復興計画も事前に研究しておく必要が重要であることを再確認いたしました。このように能登半島の皆様は半年たっても復興が本格化せず、心身ともにご苦労が絶えないと思いますが、1日も早く普段どおりの生活が戻ることをお祈りいたします。

さて、今後、「甑島(こしきじま)からの便り」と題して島での生活の様子をお伝えします。
活動報告(No.1)でもお伝えしたとおり、5月23日に甑島に帰りました。自衛官時代も毎年子供3人を連れて家族5人で島には帰省していましたが、居住するのは中学卒業以来、実に45年ぶりです。この間、過疎化が大幅に進み当時(中学3年生当時)約10,000人いた人口も4,000人程度と日本の中でも驚異的に過疎化が進行しています。
45年ぶりの故郷は時計が止まっているようです。車の音は全くせず、聞こえるのは波の音、風の音、鳥のさえずり、そして虫の声ばかりです。子供の声は聞くことはありません。一方、帰省時と違い、いざ生活するとなるといろいろと大変な面もあります。まず、フェリーで甑島の港についたところでガソリンを給油したのですが、なんと1リッターが205円でした。離島のガソリン流通コスト対策事業費(資源エネルギー庁)として離島におけるガソリンの追加的な輸送コスト相当分は補助されていましが、それでもこの価格です。年金生活者が多く収入も本土に比べて低い離島では値段以上に高く感じられます。
私の生まれ故郷の瀬々野浦地区はフェリーが着く長浜港からさらに1時間弱、細い曲がりくねった道路を通って一山も二山も越えなければなりません。アルファードを走らせるのですが、道路は狭く道の脇の草木は生い茂って先が見えないところも多数ありました。生活道路がこのありさまです。これは人命に関わる事項ですので第1優先で改善しなければならないと痛感しました。

写真:出身地である瀬々野浦地区(写真左:甑島のシンボル、ナポレオン岩 写真中央:全景瀬々野浦 写真右:港と鷹巣(岩))

いろいろと書くことはたくさんあるのですが、今回はこの辺で終わりにします。
昨日、海上自衛隊時代の同期で今は民間航空会社でパイロットとして活躍している友人から、激励とともに懐かしい甑島の映像がユーチューブにでていたとの情報をいただきました。もしよろしければ「NHK新日本紀行甑島竜宮の海の動画」で検索してみてください。私が小学校2年生当時の甑島の生活の様子が映し出されています。