活動報告

甑島(こしきじま)からの便り(第45便):第12回 助八古道を歩こう会

2025年(令和7年)12月14日(日)

第12回 助八古道を歩こう会

下甑町の瀬々野浦と青瀬を結ぶ助八古道で歩こう会が開催されました。
県内外から130名ほどの方々が参加して盛大に開催されました。
今のような自動車道路のない5、60年前までは瀬々野浦の人々にとって助八古道(当時は青瀬道(おおしみち))は生活する上でなくてはならない道でした。私も小学校のとき以来、約50年ぶりに歩きました。驚いたことに助八古道は当時とあまり変わっていませんでした。
なお、開会に当たり挨拶の機会をいただきました。その際、助八古道の役割について以下のように紹介させていただきました。
【挨拶の抜粋】
・・・さて、本日初めて参加される方もおられること思いますので、少しこの助八古道についてお話申し上げます。私が小学校に入学する前後の5,60年前までの今のような道路がない時代、青瀬と瀬々野浦はこの助八古道で深く結ばれていました。瀬々野浦の人々にとってこの道は生きていく上でなくてはならない道でした。
・中学校を卒業して進学や就職するとき、子供達は夜明け前に瀬々野浦を出発してこの道を通り青瀬の港から汽船に乗りそれぞれの夢に向かって旅立ちました。
・青瀬の郵便屋さんはこの道を通り瀬々野浦の人々に郵便物を配達していました。盆暮れの小包が多いときは2往復されることもあったそうです。
・小中学校の給食のパンは瀬々野浦のPTAのお母さん達が交代でここ青瀬にある西手パン屋さんまで歩いて来て受け取り背中に背負って助八古道を越え子供達に届けていました。
・かつてこの島に医療施設のなかった時代、青瀬には離島医療に生涯を捧げられた平田清先生という立派な医師がおられました。平田先生はこの道を通り医者のいない瀬々野浦まで往診に出かけられました。あるとき先生が往診に向かう途中、峠からはるか東シナ海を望まれたとき沖合に外国の白い高層ビル群が蜃気楼となって現れたそうです。そのとき先生が読まれたのが「往診の道すがら見ししんきろう」という句であり、この句碑が瀬々野浦を臨む峠近くに建てられています。
平田先生にまつわるエピソードの一つです。瀬々野浦にかつて大きな旅館があったのですが、そこのお父さんが夜中に危篤になられたとき、息子さんはお父さんを助けたい一心で、深夜のこの山道をランプの明かりを頼りに平田先生を呼びに30分で駆けつけたそうです。その後平田先生を瀬々野浦までお連れし、無事お父さんを診ていただいたとのことです。
このように助八古道は瀬々野浦の人々にとっては、旅立ちの道であり、生活をする上でなくてはならない道であり、また、命を繋ぐ道でもあったのです。皆様が助八古道を歩かれるときこのような人々の生きた証があったことを思いだしていただけたら幸いに存じます。・・・【抜粋終了】(了)